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『余白の辺縁』をめぐるインタビュー (公演パンフレットに掲載)

聞き手 :志賀玲子(アイホール プロデューサー)

志賀 : 今回の公演は能楽堂で上演されるわけですが、どの様な経緯で計画されていったのでしょうか。まず作品があって、それを能楽堂で上演したいと言う事で決まっていったのか、それとも能楽堂という空間がまず候補としてあって、作品が出来たのですか。

ボヴェ : 能楽堂という空間には以前から魅力を感じていました。ここ数年、空間に着目した公演を行ってきたのですが、能を舞うのではなく、自分が取り組んできた踊りを、能舞台にのせた時、どういう事が起きるのかという関心が始めにあって、企画をしました。能楽堂で踊りたいという気持ちは踊り始めた当初からありましたが、実際に企画として動き始めたのは2年程前からですね。

志賀 : ボヴェさんにとって、能楽堂という空間はどういった魅力ある空間として映っているのでしょう。

ボヴェ : 空間形態を見ると、舞台の三面が客席に開かれていて、舞台に通じる橋掛かりがあるという、アシンメトリーで特異な形態をしていますよね。一見すると不安定な構造をしているようにも見えますが、物凄い均衡が保たれています。そこに空間としての魅力を感じています。

志賀 : 最近のボヴェさんの仕事というのは、まず空間というものを作っていきますよね。空間といった時には美術や照明に留まらず、音響や床の材質、どう客席と舞台を組んで行くかという。自分の踊る環境を緻密に作って、その中からどういう踊りが立ち上がって来るのか、ということをやっていらっしゃるわけですけれども、今回の場合は能楽堂という決まった形があって、その中に自分の身を投げていくという形になるのですね。

ボヴェ : そうですね。劇場というものは、おのおのに個性的な側面や制約がありますが、基本的には白紙の〈場〉に一から作り上げていく為にある空間だと、私は感じています。しかし能楽堂という空間は状況が全く違いますよね。演出的なことを考えてみたのですが、圧倒的に寄せ付けないものが能楽堂にはあります。ですから、まずは空間としての能楽堂にお客様に入って頂いて、どういうものが生まれるのかというフラットな状態を、一度しっかりと経験してみたいという、思いがありました。

志賀 : 能楽堂を劇場としてみた時、いろいろなものがやってくる事を想定した劇場空間ではなく、能というものの身体技法というか、実際そこで演じられることとセットにして発展して来た、ある形式だと思うので、そこで演じられる「能」というものを切り離して空間について語ることは出来ないような気もするのですね。ボヴェさんにとって、能楽堂という空間で普段上演されている「能」に対してどういう思いがありますか。

ボヴェ : 美術と身体という側面からお話すると、能には美術的なものはほとんど無いですよね。一番大きなもので、「道成寺」の鐘くらいで、あとは本当に簡素化された、見立てたものですよね。空間的にも全く変化しませんし。しかし、その中に人が現れることで空間が変わり、ドラマが生まれる。その極端に簡素化された世界に、いつも驚かされます。動きに関しては、とても受動的に動いているように感じます。私も能面を付けさせて頂いた事がありますが、もうほとんど何も見えないのですよ。視界が限られた、空間的にも取り囲まれた中で、外からの力を受けながら舞う。しかし向きを少し変えただけで、空間が後ろに「すーっ」と広がっていったり収縮したり、空間の方向性や質感が「がらっ」と変わってしまう。常に空間の持っている力学的な線と身体が生み出す力線、さらにそこに切り込んで来る囃子や地謡との掛け合いと言いますか。個人の演技という枠では語れない、空間と音と身体との掛け合いの中で全体が変容して行くという。しかしビジュアル的には殆ど何も変わっていない。それにも関わらず、物凄い巨大なダイナミズムがある。動きも非常に抑制されているけれども、止まっているわけではなくて、つねに身構えている中に動きの質の変化であるとか、方向性と言ったものが内包されている。そこにいつも圧倒されますね。


志賀 : インプロヴィゼーションによるソロダンスを以前から続けられていますが。

ボヴェ : 私はインプロヴィゼーションを、無意識を現前化させる術といったら良いのでしょうか、そのように捉えています。頭の中で考えて恣意的にこう踊ろうと身体にしむけて行くというやり方では、どうしても貧しい踊りになってしまうという問題が、以前からありました。そこで身体をとりまく空間との関わりを通して生まれる踊りの可能性を模索するようになりました。空間の変化が呼び水となって、無意識のうちに潜在している身体の捉え方が偶然結びついて、「ふっ」と良質な踊りが生まれる瞬間が稀に起こります。その時どういった結びつきが起きたのかを、丁寧にみていこうと心がけています。現出して来たものを、そのまま垂れ流しにしないで、そこを起点にさらに積み上げて行くという事を、舞台上でリアルタイムに出来たら良いのですが、とても難しい事です。例えば画家等も、そのようにスタイルを更新して、広げていっているのだと思うのですが、行きつ戻りつしながらも、描いたものは持続されるので、いろいろと検証出来るのですが、ソロダンスはまた勝手が違いますから。

志賀 : 演劇だと、戯曲があって演出家がいて役者が演じていくという構造の中で、異化効果といったものを仕組んでいく事が出来る。何度も稽古をしていく中で、他人の目を介することによって、最初は「何故」と思っていることも、理屈じゃない回路が繋がるところまで作っていくということがあると思うのですが、ソロダンスは、自分で自分に仕掛けていくわけですから、凄く難しいですよね。

ボヴェ : そうですね。ダンサーとしては、理屈抜きに空間に身を放って感覚を広げていこうと努めているのですが、同時に常に醒め切った視点で状況を分析しているもう一人の自分がいますね。舞台に立っている最中も、意識は常にその中間領域を浮遊しています。より「質」の良い瞬間が現出する為に。しかし、作品を作るにあたっては、やはり他人の視点を取り入れていくことが大切ですから、身体以外の要素に関わるスタッフの意見にも積極的に耳を傾けていくことが大切だと感じています。バランスは難しいですが。

志賀 : ソロダンスはどうしても、ダンサーが生きているリアルな時間の中におけるダンサー個人の変容とひっついてしか変わっていかないと思うのですよ。ですから、一つの作品を観て「もっと、こうした方がいいのではないか」と言われて変われるものでも無いと思うのですよね。演出的に仕掛けていくというものでもなく、

ボヴェ : おのずから変化する時を待つという。

志賀 : そう。その意味でソロダンスは、デュオやトリオに対してのソロという、人数の問題とは全く別ものだと思いますね。

ボヴェ : そうですね。しかし、だからこそ、という事もあるのでしょうが、私は能のように、舞台に立つ者の自我や情念が、ある意味で、凍結された果てに生まれる《舞の強度》というものに、強く引かれるのでしょうね。ソロダンスの多くは「わたし」が過剰ですから。それは構造的に仕方が無い側面もあるわけですが、そこを超えた時に初めて生まれる、ダンスの可能性もあるのではないかと、自問しているのです。

2007年10月27日 京都・北白川にて